時間のデザイン|読書メモ
今日は一日お休み。
午前中に家の掃除を済ませて、午後から徒歩20分ほどの百貨店の中にある本屋へ向かった。
今日は2月の気温としては珍しく、14℃まで上がった。
「間違って桜が咲くんじゃない?」なんて家を出る前に夫に話し、そのまま一人で散歩を兼ねて目的地へ向かう。
本屋が好き。本屋という、その空間が好き。
そう感じる人なら、大抵が思うのかもしれないが、私にとってそこは、本との偶然な出会いを楽しむ場所だ。
ゆっくり店内を見回りながら、本棚から漂う雰囲気を感じ取っていく。
「お、なんだか気になるぞ」と思ったコーナーに入り、並んでいる本をさっと流し見する。
そして直感にまかせて、なんとなく気になったタイトルを手に取り、ページをめくる。
これが、不思議と今考えていることの答えにつながっていたりするから面白い。
だから、この偶然の出会いに浸りたいと、直感がそう告げたときには、私は一人で本屋へ行く。
嗅覚のようなものに引き寄せられるまま、コーナーを曲がる。
ざっと本の表紙や背表紙に目を通していると、一つの棚の端に置かれた本と、ふと目が合った。
今日はこの本だなと思った。
井上新八氏の『時間のデザイン』。
おそらく、表紙にある「時間」「デザイン」という言葉や、帯の「自宅でひとりで働く」というフレーズが、そのときの私の感性にぴたりとはまったのだと思う。
ブックデザイナーをしている著者。
本書の中で書かれている通り、あらゆる案件をひとりでこなしている。
フリーランスとは名ばかりに、細々と仕事をしている私の想像をはるかに超える仕事量を、彼は日々遂行しているのだろう。
時間術の一つとして挙げられていたのが、「AをしたらBをする」というトリガーを設定しておき、流れるままにタスクを済ませていくという方法。
これは知っていたけれど、改めてやってみようと思う。
そこで一際私のアンテナが反応した一文があった。
彼は「毎日」、どうぶつの森をやっているらしい。
フリーで細々と仕事をしているくらいなら、ゲームくらいできるはずなのに。
けれど、ゲームをする時間があるなら仕事をしないと……という、小さな罪悪感が、心の隅にずっと引っかかっていた。
そして、いつかその罪悪感を解き放つために、「やりたい仕事を始められるようになったら、『牧場物語』をやる!」と心に決めていた。
そんな自身の背景もあって、著者は(過労で倒れたときでさえも!)、どうぶつの森を毎日欠かさずやっていたという時間の使い方に引き込まれていった。(※過労で倒れた時は、時間術の構築前)
著者の時間デザイン術をざっと立ち読みし、モチベーションも上がったところで、さて次の本を……と行こうとしたとき、何か心の奥に引っかかっていることに気づいた。
それは読んでいる途中に出てきた一文。
「まずは形から。心はあとから入ってくる」
その言葉とすれ違ったとき、ザワッとした予感はあった。
けれど立ち読みだったこともあり、そのまま通り過ぎていた。
読み終えたあとも、それは心の中に残っていた。
「これと向き合ってみようか。」
そのざわつきは、私の中を整理し、明快にするためのきっかけでもある。
そう思い、本屋に併設された喫茶店へ入る。
持ってきたポストイットとペンを取り出し、キャラメルラテをひとつ頼む。
これこそ、私にとっての本屋での過ごし方の醍醐味だ。

さて、「まずは形から。心はあとから入ってくる」という一文にざわついたのは、ある体験が胸の奥をざらりとかすめたからだ。
「まずは形から」というけれど、むやみやたらと衝動的に、その世界に飛び込むのはいかがなものか。いや、そうであってはならない。そんな強い抵抗がある。
例えば、いつか自分でカフェをやりたいとする。
ひとまず「形から」ということで、近所の目についたカフェで働いてみるとする。
まずは洗い物から。
慣れてきたら注文を取り、レジを任される。
今度はペストリーの整理に、豆やミルクの補充。
やがて店の開け閉めを任される日が来るかもしれない。
そうして形を覚えていく。
では、心が入るのはいつだろう。
心が入るのは、誰かからの許可や、外から与えられるタイミングではない。
いつでも、自分で入れるものではないか。
形はある程度、人から教わることで身につけることができる。
けれど、それに心を入れて「昇華」していくのは、自分のタイミングだ。
形に入ったそのときから、同時に心を入れることだって、きっとできる。
私は、形に縛られるのがずっと怖かった。
形から入ったら、そこに囚われてしまうのではないか。
誰かから差し出された箱の中に、何年も閉じ込められることになったら。
そして、そもそも今いる場所が、まったく違うフィールドだったとしたら。
そこにはまり込み、身動きがとれなくなり、自分という存在を生きる時間を、どんどん失ってしまう。
その感覚が怖くて、形から入ることに強い抵抗があった。
けれど、その「形」に心を入れて、昇華することができたら。
ある「形」を昇華すると、さらに一段階上の「形」が見えてくる。
それにまた心を入れて、さらに昇華していく。
全体は、ピラミッドのような構造になっていて、頂点までたどり着いたとき、そこでの学びがひとつ区切りを迎えるのではないか。
けれど、ピラミッドはそこで終わらない。
「近所のカフェ」という頂に立ったとき、視界には、もっと広い世界が見えてくる。
そして今いるこの場所もまた、壮大な源へと続く、無数のピラミッドの一部なのだと知る。
ふと横を見ると、別のカフェでの経験という、また別のピラミッドが存在している。けれど上がってくれば、たどり着く場所は同じだ。
どこから始めても、どこかの頂点で交わる。
きっと、それぞれのピラミッドは、どこかでひとつにつながっているのだと思う。
私の場合だが、先述したように細々とライターの仕事をしている。
“売るため”の文章は、書きたくなかった。
一瞬の反応で人が振り向くように、「なんか良い」ように見せ、表面を着飾っていく。そんなもののために、言葉を使いたくはなかった。
だから私は書く場所がほとんどない。
この世でお金が回るところに身を置くということは、表立っているか見えない形であれ、「売る」という目的がどこかにある。
随分と、この「売る」という形の扉の前で、ここは違う、ここも違う、と形に入ることなく彷徨い続けていた。
実入りの良さに惹かれて入ったこともあったが、結局その形に耐えられなくなり、情けないことに、未完のまま終わった案件がいくつもある。
形を想定して、少しでも違和感があれば入ることをやめるようになった。
ただ、明らかに自分の在り方と合っていないのであれば別だが、ほんのわずかでも心の奥が広がるような感覚があれば、入ってみてもいいのかもしれない。
そこで、心を入れてみる。
そうすれば、すべては「書く」という源に、戻っていく。
心を入れていく過程で、別のピラミッドへと移動することもある。
ただ、それは自分で選ぶものではなく、自然と用意されるものだ。
大雑把に言ってしまえば、源からみれば、どのピラミッドで経験しても同じなのかもしれない。
大事なのは、心を入れて昇華できるかどうか。
迷いに耽り、一部の形の中で動けなくなることは、魂にとっての回り道となる。
つい、目の前の形だけに執着してしまい、分析し、隅々まで理解しようとする。
形の大きさはどのくらいか、どんな性質か、重さや硬さはどのくらいか……。
「この形に心を入れても良いかどうか」。見定めて安心するために、分析と理解に多くの時間を費やしてしまう。
形に心を入れるには、全てを認め、自分、そして自分が映す現実を、信頼できるかどうかだ。
認めてしまえば、あとは目の前のことに、コツコツと心を込めて取り組むだけだ。
そうすると、自然と形が満たされ、昇華していく。
昔は形にはまってしまうのが怖かったが、今は違うように感じている。
形にとらわれることなく、本質を見て、心を込めて昇華していこうとする。
物事に対する軽やかさ、オープンさ、そしてベースとなる自分自身への信頼を育んできた。
だから私は、改めて扉を開いてみることにする。
この「本の感想ブログ」という形に、心を込めることにした。
「書くこと」の源へ、コツコツと歩みを進めていきたいと思う。
必要なときには文章の型を学んでみる。
朝パソコンを開く。
一文でもいいから書く。
あるいは、ポストイットで整理してみる。
この記事を書いているあいだに、一か月が経った。
あの日の暖かい一日から寒さが戻り、今日ようやく本格的な春の兆しが見え始めてきた。
時間はかかったが、書くことに心を込めることができたと思っている。
この小さな心の積み重ねが、「書くこと」へと帰還していくのだろう。